あの日を忘れない


改ざんでなく「書き換え」菅長官が認識示す まだこんな「逃げ」を!このバカモノ!
森友文書 書き換え前、複数の政治家の名 複数職員が関与 やっぱり政治屋が!
送電網、空きあるのに接続拒む 電力参入 大手の壁 これも原発ムラによる犯罪じゃん!
「この子の足…細すぎる!?」絶対に2度見しちゃう写真 え!えー!あ!そういう事か!アハハ
「誰がどんな権限で…明らかに」石破氏、森友問題に言及 珍しくイヤミな突っ込みしてるぞ!


午後2時46分。
あの日を想い出して合掌しようと思ってたが、
横になったら寝てしまい、3時過ぎに目覚めて合掌した。
ダメじゃん>オレ


とはいえ、僕たちにできるのは「忘れない事」と「語り継ぐ事」だ。


あの日は、仕事に疲れ横になった途端揺れ始め、
段々大きくなる揺れに、仕事部屋へ戻って、
バラバラと両側の本棚の本が落ちる中、モニター2台を必死で押さえてた。


ひっきりなしの余震の中、TVで東北の津波や被害をLIVEで観てた。


水道は出たが、ガスが復旧したのは午後7時前。
お湯を沸かしてコーヒーを飲んだが、夕飯は思い出せない。
寒かったから、残りご飯に熱い味噌汁をかけてかっ込んだ気がするが。


夜になって、アチコチと連絡が取れたが、
朝方4時ごろまでネットとTVで情報収集しながら、余震に耐えてた。


新宿の会社にいたカミさんは、そのまま泊まり、翌朝帰ってきた。
「高層ビルが揺れてるのが目で見えた」と言ってたっけ。


翌日は近所の知り合いの部屋の片づけの助っ人。
ウチは9階だが、そこはもっと高台の10階で、
我が家も部屋の中がメチャクチャだったが、そこも酷かった。


スーパーやコンビニから食料品が消え、
非常用の懐中電灯の電池も売り切れで手に入らなかった。


なにより、ひっきりなしの余震が続いてたので、
「また大きな地震が来るんじゃないか」といつも頭の中で思ってた。
揺れてないのに揺れてるような「地震酔い」が続いてた。


東京にいてもこんな恐怖の日々は初めてだったが、
東北の人たちの気持ちは、さぞ辛いだろうと心配した。


ネットの情報を元に、海老名モスクへ食料の差し入れに行ったり、
救援物資にセーターや靴などと一緒に、ふと思いついて「老眼鏡」も入れた。


カミさんが急遽作った「布の手提げ袋」が、
ニュースに映った小学生が持ってて「良かったねえ!」と大喜びした。


あれから7年。
地震の日の夕方のTVで観た、津波に飲み込まれた町に向かって、
「おかあさーん!おかあさーん!」と泣きながら叫んでた女の子の姿が、
今も忘れられない。


お母さんは無事だったろうか?


無念の死を遂げられた方々に、合掌。