10年


福島原発で放射性物質の放出増加 内視鏡調査などが影響か 何があっても「事故は収束」
原子力対策本部に議事録存在せず 保安院「急に開催、対応困難」このズボラさ!いや意図的だな。
電力需給:政府今夏試算「6%余裕」伏せる ほら!やっぱり!足りてるのに騙してた。ケッ!
宝くじ1等賞金7億5千万円に 100万円が1万人に、の方が売れるのに。


昨日は、弟が亡くなって10年目だった。


クリスマスの頃姉貴から連絡があり、何度も病院へ行った。
仕事が忙しく、展覧会の準備とも重なって大変だったが、
弟は、当時新潟県長岡市に住んでたので、毎回新幹線だった。


僕は親と縁を切って生きてきたんで、ん十年ぶりに母親にも会った。
成長した弟の息子・慎之助や、五才の娘にも初めて会った。


すでに末期がんの手遅れで、回復の見込みはなく、
長くて半年、早ければ1カ月と言われ、
延命処置はせず、苦痛の排除だけ先生にお願いした。


その間、病院でも一言も会話すらできなかったが、
入院から一カ月で亡くなり、その日、夕方連絡が来てから、
姉貴の家族と東京駅で待ち合わせ、長岡へ行った。


夜中にバタバタと、葬式や家族の宿泊の手配をしたが、
葬式の日の長岡は、朝からすごい大雪だった。


一週間ほど長岡で事後処理などして、夜遅く東京に戻ったが、
東京も雪で真白。だったが、普段使わないエアコンを使おうとしたら、
壊れてて全く使えず。しょうがなく翌日買い替えた。


長岡に行ってた間、やる事だらけで徹夜に近い日が多く、
帰ってきた日は過労で言語障害になり、僕も逝っちゃいそうだった。


小さい時から、僕にまとわりついて、
保育園までついてきて、毎日玄関でワアンワアン泣いくから、
入園してないのに、僕の隣に座って1年間通わせてもらったのを想い出す。


僕は特別弟を意識した事なんか無く、ただ「うっとうしいなあ」だったが、
葬式の後奴の友達から、弟は僕にずっと憧れてたと聞いてビックリした。


ガキンチョの頃は、僕の方が身体が弱かったのに、
人生は分からないもんだ。


葬式の間、僕の膝にかってに乗っかってた五才の姪が、
長々とお経を読むお坊さんを指差して、バカでかい声で、
「あの人、飽きない人だねぇ」には、会場中爆笑だった。アハハ


僕は、亡くなった弟を見ても実感できず、涙も出なかったのに、
出棺の挨拶で一歩前に出た途端、号泣したのには自分で驚いた。


あれから10年。
昨日は、特別な事は何もしなかったが、
なんだか弟が死んだなんて、未だに全く実感が無い。合掌