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睨むカマキリ。
そりゃそーで、いく手を僕が邪魔してるからで、
「写真撮るだけだから・・・」とお詫びした。アハハ
さて、なんだかこの数年で「日本の空気」が変わってきたように思う。
具体的に言うと、
「生産性で分け隔て『不寛容』になった」ように思うのだ。
今回の台風19号でも、避難所に来たホームレスの人を、台東区が拒否した。
貧富の差や住民登録の有無の方が「命より優先」という対応に唖然だが、
身の周りでも、障害のある無しや男女や年齢などで、
不条理としか言いようのない差別がいっぱいある。
「なぜ、弱者を叩く社会になったのか?」相模原事件から考えた、不寛容な時代
によれば、
「日本には財源ないから、障害者や高齢者のような
役に立たない人の面倒見るなんて無理だよね」という話を
善意からしてしまう人が出てくるようになってきている
「善意」からという意味では、
神奈川県相模原市の「やまゆり園」事件の犯人・植松被告は、
あの事件を起こしたことで「自分は役に立つ側の人間になった」と感じていること、
「障害児を育てることに苦しんでいる母親を救いたい」という思いがあった
って、障害者を殺す事が彼にとっては「善意」であり、
生産性のない人間を減らす事が「世の中を良くする事」という感覚だ。
一般的な通り魔の「殺す相手は誰でもよかった」なんて無方向の殺意ではなく、
ハッキリした殺意の意味があり、それが「善意」として実行される。
なんだかトンデモナイ発想だが、
それと同じ事を言ってた仕事関係の人を僕は知ってる。
植松被告やその知人の壊れ方だけではなく、
社会の根っこが、
こんな「間違った善意の選別感」に満たされつつあるんじゃないか?